三木 稔 Home Pgeへメッセージへ
Photo
2000.5
《源氏物語》稽古開始
三木 稔
 
 オペラ《源氏物語》世界初演の稽古が始まった。セントルイス・オペラ劇場(OTSL)が、本拠地で私のオペラを上演するのは、81年《あだ》アメリカ初演、85年《じょうるり》世界初演に次いで3度目になる。
 セントルイスはアメリカの真中、ミシシッピー・ミズーリ両大河の合流点に位置し、都市圏人口350万。緑に覆われた美しい街で、西部への入り口を象徴する巨大なアーチやショーボート、マークトゥエイン、バドワイザー、マックガイアーのいるカージナルスで有名だ。音楽でもセントルイス交響楽団が全米2番人気だった時もある。セントルイス・オペラ劇場は「英語によるオペラの確立」を旗印に、郊外の大学の施設を5月と6月借り受け、オーディションで全米の優れたオペラ歌手を登用し、毎年約4億かけて4つのオペラを1ヶ月間フェスティバル形式で上演という、オペラ世界注目のシステムを続け、今年が25周年。メトとは別の中劇場規模ながら、アメリカで大きな業績を称えられている。
 今回の《源氏物語》のスタッフを紹介しよう。台本・演出のコリン・グレアムは1972年に作曲を頼まれて以来の親友。ロンドンの《あだ》の後アメリカに活動の場を移し、ここでは芸術監督。指揮のスチュアート・ベッドフォードとは《あだ》世界初演以来21年目の再会である。 装置・衣装デザインの朝倉摂さんは《じょうるり》でもご一緒したが、今回ずっと私を激励しつづけてくださった。振付の尾上菊紫郎も大切な役割を担い、私のオペラで幾つもいい仕事をしてくれている。かつら担当のトム・ワトソンはその道で大御所。劇場総監督チャールズ・マッケイは今年15年目を迎える。
 私は、秋に初演する2つの大きな器楽曲を当地で並行して作曲せねばならないので、少々苛々しながらも、尾上・美術助手の松野純・通訳の福沢良美さんたちと5月7日元気に現地に乗り込んだ。ミシシッピー川を見下ろす高層マンションのピアノ付きスイートと日産サターンを劇場から与えられ、何箇所に分かれた稽古場に通うのに最初苦心したが今結構楽しんでいる。
 日本のオペラ事情と違い、最初数日の音楽だけの稽古に、歌手たちはほぼ完全に暗譜の状態で臨んでいる。私は、自分が在席しなくても世界の誰もが理解できるよう工夫してスコアを書いているので、稽古で注意するのは細かいフィーリングだけでいい。ピアノ伴奏の音楽稽古の途中、何箇所かのアリアで自然に拍手が来る。横で聞いているコリンがその度「美しいアリアだ、ありがとう」と感謝してくれるので3年間の苦労が吹っ飛ぶ想いがする。
 源氏役のメル・ウルリッチは長身で清潔且つ艶があるバリトンで、「寝ていてもいつも源氏のメロディーが聞こえてくる。こんなことはモーツアルトでしか経験したことがない」という。私には最高の賛辞。藤壺と紫は巧妙に一人二役のソプラノにされているが、小柄で透明な美声のエリザベス・コモーはうってつけ。メッツォが歌う葵のジェシカ・ミラーはややクールな美人。最も難しいスピント・ソプラノ六条御息所を演じるシリル・エヴァンスは若いがその力を買われ、二幕では明石をも歌う。唯一の悪女孔徽殿はメッツォで、年季の入った大歌手ジョセファ・ゲイヤー。頭中将はややコミックな役割に設定したが、イタリア系テナーのリチャード・トロックスウェルはまさに適役。他の脇役たちと、多彩に活躍する合唱がいて、全てを締める桐壺帝は貫禄のバス、アンドリュー・ウエンチェル。
 今彼らは慣れぬ所作の習得にナーヴァスになっている。
しかしこの期間を超え、月末に琵琶・七絃琴の楊静と二十絃筝の木村玲子が加わり、セントルイス交響楽団との練習が始まると、《源氏物語》は突然原作の物語世界から飛び出して、紫式部も想像し得なかった響き豊かな立体次元に変身するはずである。

徳島新聞「音楽随想」原稿より

この随想は著書『オペラ《源氏物語》ができるまで』に収録されています


三木 稔